本日は、読者投稿からの掲載です!
皆さん、初めまして。
ゴー宣読者、よしりんファンの松平と申します。
昨年、ゴー宣とは関係ない”いち個人”として、憲法に関する議論のイベントに参加しましたので、その時の模様や、気付いたことなどを皆さんと共有できればと思い、この場を借りさせていただきました。
理由は主に、
①ゴー宣や皆さんから学んだことを、ゴー宣と関係ない所で、いち個人がどれほどできるのかを試してみたかった。
②日常や市井の人たちにある程度近い場所で、ゴー宣および読者の皆さんが目指しているところへの貢献ができればと思った。
③単純な好奇心。普段関わっている所と違う場所へ出かけて、自分がどう振る舞うかを自分でも見てみたかった。
こういったところです。
【注意】発言者やイベントの時期・地域は多少変えていますが、発言内容とその時系列はほぼありのままに記しています。今回の議論の内容は、既にネット上の某所で公開されていることや、約1年経過したことも踏まえて、公開することに致しました。
2023年5月某日。東北に近い関東某所。私は『日本国憲法について』と題した「哲学カフェ」のイベントに参加しました。
「哲学カフェ」とは日本各地で行われている市民レベルのイベントで、主催は様々、色々な社会的事柄を語り合おうという催しです。討論会やディベートでは無いので、できるだけ全ての人が発言し、発言中は他者を遮らず、結論を無理に出さない…というのが最低限のルール。この哲学カフェもその一つということになります。この頃、私はゴー宣道場や愛子さまイベントへの参加以外にも、いち個人として、自分の言葉や読者皆さんの想いをどれだけ現実にできるか?という問いへの試みとして、色んなイベント告知サイトを渉猟し、あちこち出かけて、右だ左だの思想問わず、さまざまな人と会って話をしていました。この「哲学カフェ」の参加も、その試みのひとつでした。
さて、今回の哲学カフェの議題『日本国憲法について』ですが、参加者は私含めて20名ほど。イベントの最初に司会者X氏から「具体的には、憲法記念日も近いので”日本国憲法を改正すべきか?するとしたら何をどう変えるべきか?”を議論したい」という提示がされました。最初に参加者各人の自己紹介と、本日話したい事を述べる機会があったのですが、私はこう述べました。
「松平と申します。今日は憲法について皆さんと、日々の生活の延長線上で話し合えるという貴重な機会だと思ってます。憲法は長くていっぱいあるので、やっぱり第一条をどう捉えたら良いのか、について色々と皆さんの気持ちを聞きたいです」
本音は”7月の愛子さまイベントに向けて、少しでも貢献したい!”だったのですが、それでは浮世離れしてしまう、ここはアジ演説場ではなく”市民の語り場という公の空間で自分を試す機会”なのだ、と自分に言い聞かせて、このような内容で話しました。
そこからは挙手した人から自由に発言が始まったのですが…。
「皆さんこんにちは、『九条の会』の者です」
と、冒頭、とある方(以下Q氏とします)がいきなりこう発言しました。以下、発言の概要です。
・やはりもう結論は憲法改正反対。特に九条は絶対変えてはならない。
・ただ、この1年で15回ほど憲法に関する会合やイベントをやったが、中々人が集まらず、広がりもしないので苦しい。
・改めて私たちとしては、現在の政治家の状況から言っても絶対憲法改正してはならないという立場だ。
この発言に、私は少々驚いてしまいました。ここは『哲学カフェ』ではないのか?募集告知ではそこまで絞った書き方はしていなかったのでは?いち個人として語り合う場ではないのか?という疑問が生じ、その疑問は、主催X氏の補足で更に増しました。
「やはり今日は憲法九条について中心になると思った通りだった。私としては議論の余地が無いほど戦争放棄を謳った条文にして欲しいです」
ここで私はやっと”ああ、なるほど。今日も憲法全体というより憲法九条の討論会になるな”と観念しました。市民の広く浅い語り合いという私の無邪気な期待は、早々に打ち砕かれた格好です。
この時期、私が色んなところに行って話を聴いて痛感したのは、右も左もみんな揃って”憲法九条、戦争反対という主張の発露にしか興味がない”という現実でした。この場所でも、それは同じでした。
しかし私はこの時、小林先生が『台湾論』で描いた陳水扁総統(当時)との対談でのふるまいを思い出し”よし、頭を切り替えよう。自分の主張ではなく、ふるまいをここに残そう。皆の中に『皇室のコの字』だけでも置いていければ”と思い直して、改めてこの場に向き合うことにしました。
議論はその後、参加者各人の意見表明が続き、全員の意見がほぼ皆「第九条改正」賛否についてでしたが、それ以外の共通点にも気付きました。それは参加者の多くが、
・憲法はフワフワしてよく分からない条文が多い。
・何条だろうがうかつに変えたら”何か危ない”から、現状維持でいいんじゃない?
という認識を持っているということでした。
そこから第九条や自衛権の矛盾等々の話が続きましたが、しばらくして、ポイントとなる発言が出ました。
「そもそも憲法って、第一条からして分かりづらいじゃないか。だいたい”象徴としての天皇”ってなんだ?」
そこから議論は偶然にも「憲法第一条をどう変えていくか?」「そもそも天皇って何だ?」という内容にシフトしていきました。
以下、主な発言(ほぼ順番通り)です。
・天皇には何の権利もないし、そもそも日本国憲法は大日本帝国憲法を改正(?)して生まれた”残り物”に過ぎないから、ただかわいそうなだけの人になっている。
・天皇はGHQの占領政策の都合で憲法に残されたに過ぎない。もう重要な存在では無いし、重要な存在にしたら軍国主義の時代に戻るから、憲法の後ろの方に書いておけばいいのでは?
・そもそも私たちは第九条の話をしたいのに、その前の条文に天皇がいっぱい入ってるせいで中々第九条の話に辿り着けないという苦悩を日々感じている。
・結局、天皇は私たちとは違う存在だ。経済的にもいっぱい財産持ってるし、差別の根源だ。差別の根源が憲法にあってはならない。
・一条と九条以外にも、現代の社会状況にそぐわないところいっぱいあるよね(性自認、労働の義務、憲法裁判所etc)
・一緒くたに変えようとしている人が多い。それは危ないと思う。だったら変えなくても良いんじゃない?
できるだけ発言を遮りたくはありませんでしたが”残り物”発言にはいたたまれなくなってきたので、挙手して以下を補足しました。
・皇室の財産や出自は「憲法第8条」「皇室典範」「皇統譜」で定められており、決して”何の根拠も無い人たち”ではない。
・ただし皆さんが言う通り「基本的人権」はほとんど存在しない状況ではある。特に移動の自由や言論の自由に顕著だ。
(語り口は努めて穏やかに冷静に、普段の道場の高森師範のソレを真似しました)
そして(多分また九条の話に戻るだろうし)このタイミングしかないと思い、参加者の皆さんに以下の問いかけをしました。
「どの国の憲法でも、前文や第一条というのは、国の根幹や理念を謳っている。だからこの第一条を変えたら、私は国の在り方、この国に住んでいる人々の生き方が大きく変わると思いますが、皆さんはどう思いますか?」と投げかけてみました。
これはここまでの議論を通して”ここまで皆九条、九条と言うのは、ウクライナのこともあったせいで、余計に自分の生き死や本能に近いことを喋りたいからなんだろう。皇室や国体といった理念を語る余裕は、この場には無いのだ。であれば、私自身の語り口をもっと彼らに近づけるしかない”と考えて紡ぎ出した言葉でした。
以下はそれに対する反応です。
・第一条、を変えたら日本は大きく変わる…という話は半分本当で半分違う、と思う。と言うのも、70年近く天皇も九条も今まで上手くやって来たんだから無理やり変えなくて良いのでは?と思う。
・「象徴」という曖昧な文言や、自衛隊の違憲状態を生んでいる条文、そういうのは変えていくべきだと思う。
・現在の自民党の憲法審査会に憲法を任せては居られない!
・第一条を改正して、現状の天皇を国民扱いにしたら、未だに国民からの人気が高い天皇が権力者になって危ないから、憲法一条は変えなくてもいいと思う。
議論はここで休憩となり、第二部となりました。
この続き、第二部の模様は明日【後編】として掲載します。
大変な「武者修行」レポート、ありがとうございます。
自分がこの場にいたら何をどう言えただろうと考えると、その前にあまりにも不毛なものを感じて、何か言う気にもならなかったのじゃないかと思ってしまい、よくそんなところで発言が出来たなあと思います。
それにしても、「憲法」や「天皇」について、イデオロギーに凝り固まっていない「市井の人」と話せる場って、この日本にゴー宣DOJO以外には一つもないんでしょうかね?(時浦)